第三の選択

第三の選択

第三の選択

禅の考案に次のようなものがある。手の中に雀が握られている。それを示し、「この手の中の雀は生きているか?死んでいるか?」と質間する。そういう公案である。

「生きている」と答えれば、彼はその雀を握りつぶして、殺してしまうであろう。「死んでる」と答えれば、ぱっと手は広げられ、雀は逃げてしまうであろう。そういう意地の悪い質問である。

イエスかノーか、容易に答えられない問いかけが、禅の公案には幾つもある。これには、回答者を追い詰めて、思考分別がきかないようにさせ、ついで、この思考分別を打破し、それを超える工夫を、本人によって発見させようという意図がそこにある。

そして、そもそものその意図は、イエスかノーかのいずれかを選ばさせようと、強制し、その心理的呪縛の中に追い込もうとするところにあるのだ、と私は思う。かくて、回答者は、イエスかノーかに回答を発見しようとし、精神的にもがくのである。

しかし、質問者の目的は、回答者にその精神的呪縛をいかにして自力で払い捨てさせるか、というところにこそあるのだ、と私は思うのだ。回答は、イエスかノーかの二者択一に限られたことではないのだ。

そこには、第三の選択もあり、回答者がそれに気がついた時、彼は初めて呪縛から解放され、自由を得るのである。試みに、この質問が、私、無能唱元に課せられたとしよう。はて、私なら何と答えるであろうか?

禅者「この雀は生きているか? 死んでいるか?」私「生死は汝の手中にあり!」「生に非ず、死に非ず。活殺は自在にして、汝の把放の決断にあり」と、この答えこそ、二者択一の呪縛から逃れ出た者の、第三の選択ではないだろうか。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional